すぐに役立つためだけか 研究者編 書記長のつぶやき②

2015-06-22

文科省の「組織及び業務全般の見直しについて」という6月8日の通知が 「教員養成系や人文社会科学系の廃止・縮小の検討」という点で注目を浴びている。それに先だって、産業競争力会議で下村文部科学大臣は「イノベーションの観点からの国立大学改革について」(4月15日)を行っている。要するに高い付加価値を生み出すか否かを基準に「学内資源の再配分や新陳代謝を進める」ことを求めるものである。産業界の求める貢献が乏しいとされる人文系がスクラップの標的となっていると言える。これがいかに愚かなことかは、6月22日付け日本経済新聞の佐和隆光滋賀大学長の見解を読むだけで十分わかる。朝日新聞社説(6月10日付け)も「国立大学 すぐ役立つためだけか」と警鐘を発している。すぐ役立つものだけが研究でもないし、研究者の役割でもないと、個人的体験からも思う。

昨年、日本におけるカジノ合法化の是非をめぐる論争に図らずもかかわるようになった。もともとは金融論の専門家として、消費者金融の多重債務問題の原因の一つとしてのギャンブル依存症の問題に触れ、消費者金融の上限金利引下げを求める日本弁護士連合会とのお付き合いがあった。その流れで、昨年4月にカジノ合法化の是非について見解を求められる機会があり、それ以降、NHK週刊ニュース深読み、BS日テレ深層ニュース、ビートたけしのTVタックルに出演する一方、日本経済新聞の経済教室や雑誌『世界』への寄稿や新書『カジノ幻想』刊行などを通じてカジノ合法化反対について研究成果を発表する機会を得ることになった。これが、それなりの社会的貢献であったとするならば、つくづく「すぐに役立つためだけに研究者はいるのではない」と実感する。多様な問題意識を持った研究者が多様な研究を行っているほど、社会のなかで突然生じた研究課題に柔軟に対応できる可能性が高まると思う。一見無駄に見える沢山の研究という引き出しがあって、必要な時に空けると必要な知的成果が入っている・・そういう研究の担い手が国立大学の使命ではなかろうか。また柔軟に研究に集中できる時間の余裕や恒常的研究費の存在が欠かせない。学科スタッフとの共同研究の科研費の継続がかなわなかった「すきま」があればこそ柔軟に対応できたかもしれない。ともかくも外部資金の研究テーマで「がんじがらめ」になっていた研究者では、こういう突然の社会的要請に柔軟に応える余裕がないのではないかと懸念する。すぐに役に立つか立たないかという短期的・画一的なな基準で、研究と研究者を評価し、「学内資源の再配分や新陳代謝」を進めて行くことは、国立大学の本当の価値を損なうのではないか、日本の学術研究の価値を損なうのではないかと、懸念が増すばかりの昨今である。FullSizeRender (5) 日経6.14 タックル

 

 

カテゴリー: コラム 

ページトップへ